<戦後80年私のことば12月後編>
たび重なる空襲に戦況の悪化、そして敗戦。連合軍の進駐と、軍国主義を脱する方向への転換。改めて言うまでもなく、1945(昭和20)年を境に、日本は大きく変わった。
その日々の様子を、東京都滝野川区(現在の北区)の志村建世さん=滝野川国民学校初等科6年=は、日記帳に丹念に書き留めていた。節目の年を過ぎて迎えた1946年1月1日の日記は、このように始まる。

1946年1月1日の日記=東京都中野区で
「昭和二十一年一月一日、今まで戦争が続いていたらどうなったろうか、やっぱり戦争が終(おわ)ってよかった。おかげで、今日は、平和なお正月を迎えることが出来た」。1年前に「元日から空襲などあってえんぎが悪いです」と書いたのとは大きな違いだ。
もっとも「昨日の晩かしら停電になったり」という一文もあり、1945年の12月31日は、まだのんびりできなかったようだ。
しかし、続きには気になる表現もある。「夜中に小便に起きた時、まだ十二時前だろうと思っていたら、一時半だった、もう昭和二十年は終ったのかと思ったら少し淋(さび)しかった」
この、80年前の「少し淋しかった」について志村さんに聞いた。すると「日本が国を挙げて戦争して、一生懸命戦ってるっていう緊張感ね。あの緊張感がほどけた。いいことなんだろうけども、そのほどけ方が、ポツダム宣言受諾で、降伏ですからね。負けて終わりなんですから、愉快なはずじゃない。『淋しかった』にはいろんな感情が入っていますね」。
1946年1月1日の日記に戻ろう。

日記を読み返し、当時を振り返る志村建世さん=東京都中野区で
「朝は割合早く起きた。姉ちゃん達が一生けんめい朝飯の用意をしていたので、どんな物が出るかな。と見ていたら、姉ちゃんに、『見ていちゃお楽しみが無くなっちゃうから向こうへ行っていな』と言われた。しばら...
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